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              「実りある信仰」        ルカ3章4~8節  

                                                                                                                                 鈴木 夕太 伝道者 

 

バプテスマのヨハネに、神は素晴らしい働きを与えられた。それは主の道に入れるようにと、

人々にバプテスマを受けさせるという備えであった。

天の御国への第一歩、素晴らしい恵みの実である。しかし、それは当時のイスラエル人たちが考えていたように、

アブラハムの子孫だからということで、軽はずみな気持ちで受けられるようなものではなかった。

 

 当時のイスラエル人たちは、行いが大事だと思っていた。信仰は持っているのが当たり前、天地万物を創られた神様を

信じているのは、イスラエル人としては当たり前であった。

 信じている証として律法という神の決まり事を守らなければならない。その決まりが曖昧な所を補おうと「口伝律法」というものがあった。これは神の与えたものではないが、真面目に守ろうとしていたし、守っているという自負があった。

   特に律法学者や祭司たちはそれを誇りにさえ思っていたのだ。しかし、「口伝律法」を守っていない人々を責め、

戒めるというなんとも困った人たちでもあった。

そこで、彼らにヨハネが「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」(ルカ3:8)と言った。

それは本当に腹立たしい思いがしただろう。自分たちは完璧だと思っているのだから。

 皆さんの周りにもいるのではないだろうか。「自分は完璧。とまでは思っていなくてもあの人よりは出来てる!」

「あの人よりはましだわ。」という人々が。ともすれば私自身もそのように思って人を裁きそうになる。

 その時、私は紛れもなく自分が罪人だという事を思い出す。完璧な人はただ一人「イエス・キリスト」だけなのだと。

そんな罪を持った私のために、私たちのために、イエスは来たのだ。神の子でありながら、人として家畜小屋で生まれ、

私たちの罪のために十字架で死んだのだ。

 そして、イエスは教会を建てた。それは私たちが一人では信仰を保ち続けるのは難しい事を知っていたからだ。

 神様と深く交わり、全世界の人々に神様の愛と救いを伝えることは素晴らしい恵みの道なのだ。

 その一人一人の信仰の実を神様は分かち合うことを勧めている。

  「その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び 

                                                                                         

              

                                                                                          

    とあるように私も神様に喜ばれる実を結びたい。

 完璧な実りある信仰をもっているイエス様に今日も倣って祈りつつ、歩んでいこうではないか。

 そしてその道のりは一人ではない。主なる神はもちろん、教会の仲間がいるのだ。時には悩み苦しむこともあるだろう、しかし、共に祈り、共に神を心から賛美しよう。必ず解決の道が備えられているのだから。

 今日も神の愛に感謝します。

その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える」(詩篇1:3)  

 

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